|羊肉の饗宴 Banquet of Sheep’s Meat[3]|
日本人とヒツジ

中国から干支が伝えられたのは、奈良時代以前だと考えられています。また、中国帰りの禅僧が現地の羊肉の汁物を模して小豆で作った「羊羹」は、すでに鎌倉時代にはあったと言います。そんな風に「羊(未)」という言葉は古くから使われてきましたが、日本人が実際のヒツジを目にしたのは明治に入ってからでした。

日本人とヒツジ

そもそも日本には、在来種の羊というものは存在しません。現存する、最も古い記録は『日本書紀』。推古7年(599年)9月に、百済から推古天皇へ贈られた貢物の中に羊2頭がいたという記述があります。以後の時代も、大陸から日本へ渡ってきた羊の記録がいくつか残っていますが、家畜として本格的に羊の飼育が始まったのは明治に入ってからのこと。

では、これより日本人とヒツジの歴史をたどってみたいと思います。最初の輸入は明治2年、アメリカからやってきたスパニッシュ・メリノ種でした。飼育の目的は、羊毛を得るため。明治に入り、和装から洋装が広がって羊毛の需要はうなぎ上りになったのです。

明治8年には、政府の肝煎りで「下総御料牧場」が開設されます。それは蒙古羊2千5百頭、アメリカ産メリノ種5百頭、その他にサウスダウン種、リンカーン種などを集め、外国人指導者も雇い入れた大規模飼育場でした。翌年には、「札幌牧羊場」が誕生。

しかし、いずれもほどなく失敗に終わり、羊毛の国内生産は暗礁に乗り上げ、オーストラリア、ニュージーランドからの輸入に頼らざるを得ない状況が続きます。事態が一変したのは大正3年。第1次世界大戦が始まり、海外からの輸入がストップしたのです。そこで大正7年、軍服など軍需羊毛自給のため、政府が掲げたのが「綿羊100万頭計画」(この時点ではまだ1万頭以下しかいませんでした)。

それと同時に、羊肉の普及活動も始まります。当時の政府は動物性たんぱく質の資源確保に熱心で、羊毛を得た後の羊を利用して肉を食べようと考えたのです。ここで大躍進した料理に「ジンギスカン」があります。しかし、このような国策を掲げた同年、第1次世界大戦が終わり、すぐに安い海外の羊毛の輸入が再開。

一方で、飼育もなかなか上手くいきません(羊は舎飼いが難しく、しかし放牧するには広い土地が必要。また、日本の気候風土に体質が合わない品種も多いなど)。そして第2次世界大戦前、昭和10年代に再び軍需のために羊を増やす国策が発信されますが、昭和20年(終戦の年)には、その数18万頭でした。しかし、物資不足で困窮した戦後、衣食のいずれも賄うことができるヒツジは再び脚光を浴びます。それに伴い、これまでは羊毛のためにメリノ種を中心に飼っていた品種も、毛と肉の兼用種のコリデール種の導入を開始。

そして、日本人のヒツジ生産への熱もグンと上昇し、昭和32年、一気に94万頭に達します。これはいよいよ100万頭も夢ではない数字で、ようやく日本にもヒツジ時代が到来かと思われた矢先、昭和34年には羊肉が、昭和37年には羊毛の輸入が自由化に。こうして海外からの安価な羊肉や羊毛がどんどん入ってくるようになり、加えて羊毛には化学繊維というライバルが出現。

以後、日本のヒツジ生産量は下降の一途をたどります。羊毛生産は完全に衰退し、羊肉生産に特化した時代となりますが、日本のヒツジ産業は元気を取り戻すことはありませんでした。現在、国内ヒツジ頭数1万2千8百頭(2012年現在)。流通する羊肉は、オーストラリア産60~70%、ニュージーランド産30~40%、そして国産+その他海外産で1%未満というシェアです。

日本のヒツジの歩み

戦前「農林省月寒種羊場」だった、「さっぽろ羊ケ丘展望台」。市街地や石狩平野を見渡すことができ、今は札幌を代表する観光名所

【明治以降】 日本にヒツジがやってきた頃
明治に入り、洋服や毛織物の需要が高まる。そして、千葉、北海道に大規模な放牧場ができ、本格的なヒツジの飼育が始まった。この当時は、かなり多品種のヒツジを飼育

【戦時下】 「羊毛の獲得」が国策の頃
第1次、第2次世界大戦など、戦争の度に軍需で羊毛の獲得が国策となる。また、放牧ではなく、小規模な舎飼いも広がった頃。主に、羊毛用のメリノ種を多く飼育していた

【戦後】 頭数がピークを迎えた頃
戦後復興の頃で、物資不足から羊毛ならびに羊肉の需要が高まる。そして、日本のヒツジ飼育は全盛期を迎えることに(94万頭超)。毛と肉の兼用種、コリデール種が主流に

【現代】 国内生産量1%未満の時代に
化学繊維が普及し、ヒツジの利用目的は羊毛から羊肉へシフト。しかし、国内生産量は減少の一途。飼育品種は、産肉性が高く、顔や手足が黒いサフォーク種(写真)が多い

Japanese and sheep 「日本人と成吉思汗の物語」

前述の通り、大正時代、政府は羊肉の普及に着手しました。しかし現在、周囲を見渡してみても、日本には羊肉料理を食べる文化はあまり定着していません。と言うのも当時、政府が利用しようとした肉は、羊毛品種の羊毛利用した後の高年齢のマトン。香りも強く、身は硬くてパサパサ。

明治に入ってからようやく肉を食べ始めた日本人にとってマトンのクセはひときわ強烈で、なかなか馴染むことはできなかったのではないでしょうか。そんな中で、日本人が育み、唯一愛した羊肉料理があります。「ジンギスカン」です(漢字で書けば「成吉思汗」)。

硬くて香りの強いマトンでも、濃厚なタレに漬けるジンギスカンなら美味しく食べられたのでした。昭和4年(1929年)春、36日間にわたり、上野公園で華々しく開催された「食糧展覧会」の中で、一番熱心にアピールされたのが12品の羊肉料理。中でもメインはジンギスカンで、話題となり、これも1つのきっかけとなって広く流行することになったそうです。

さらに、やがて、北海道をはじめ、めん羊の生産が盛んだった各地の郷土料理や名物料理にもなったようです(下の地図)。その発祥は、「北京の『正陽楼』という料理店のメニュー『火考羊肉』(カオヤンロウ)が原型」、「鷲沢与四二氏が名付け親」、この2点については有力な説に思えますが、それ以上の背景には諸説あり、定かなことはなかなかお伝えできません。

しかし1つの説をご紹介すれば、多田鉄之助氏(明治29年生まれ、食味評論家)の著書『食通の日本史』にはこのように記されています。「大正の初めに北京在住の新聞記者や会社の支社長などで組織されていた日本人クラブがあった。そのメンバーのひとりが、あるとき、鉄製の剣道のお面みたいなものを古道具屋から買ってきて、これを利用して羊肉を焼いてみた。

ところが、なかなか調子がよかった。この料理に名前をつけようということになり、ジンギス汗焼がよかろうといったのが『時事新報』北京特派員で支局長の鷲沢与四二氏であった。(中略)この話は鷲沢氏から私が『時事新報』編集局で直接聞いたものであり、間違いはない」。

なお、モンゴル帝国を率いたジンギスカン(チンギス・ハン)が遠征の陣中で兵士たちに振る舞った料理、という説はほぼ間違いなく俗説のようです。

「しろくま」が体験させてくれる、極上の北海道のジンギスカン

花見の時の定番料理であり、普段は飲んだ後の〆としても…。北海道の人々は、日本独自の羊肉料理・ジンギスカンを身近な日常の中に根付かせてきました。そんな北海道の食文化の醍醐味を東京でも味わえる店が、ここ「札幌成吉思汗しろくま」です。

本店は札幌にあり、スタッフは全員、北海道出身(左の写真は、札幌出身の店長・伊藤貴広さん)。北海道産の羊肉を扱う都内唯一(多分)のジンギスカン屋で、都内随一、羊肉の品質にこだわっている店とも言えるでしょう。羊肉は切った断面が空気に触れるとすぐに香りが変わってしまうため切り置きはせず、注文を受けてから塊肉をカット。

肉本来のジューシーさを生かせるよう1枚ずつ、少し厚めのスライスで提供します。また、生産者とつながっている店だからこそ、稀少な肉とめぐり合えるチャンスも。例えば、右下の写真は「生マトン」(せたな町産)。時にはレバー、ハツ、タンなど、なんと羊のホルモンが入荷されることもあるそうです。

北海道産羊肉は不定期入荷で、その都度、産地・量・部位も変動する(1,800円~)。一 度も冷凍しない生肉を入荷するので鮮度最高。

アイスランド産ラム(1,240円)、 オーストラリア産のラム(890円)とマトン(740円)もあり、食べ比べしても◎

札幌成吉思汗しろくま赤坂店

TEL:03・3583・4690
住所:東京都港区赤坂3・6・13アニマート赤坂2F
営業時間:18:00~翌2:00(翌1:00LO)/土~24:00

Text:平良耕

※こちらの記事は2015年2月20日発行『メトロミニッツ』No.147掲載された情報です。

※こちらの記事は2015年2月20日発行『メトロミニッツ』No.147掲載された情報です。

更新: 2016年11月5日

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