|東京ハイカジ中華[4]|
CHRONOLOGY
現在に至るまでのハヤリ、スタリをおさらい
黎明期から“ハイカジ”までその歴史を追った東京中華料理の歩み

2010年代、“ハイカジ”な中華料理店が続々とオープンするわけですが、それまでの東京の中華事情についても時代ごとにキーワードがあり、流行がありました。ここでは“ハイカジ”に至るまでの歴史を振り返ってみようと思います。

そもそも中国の料理が日本に伝えられたのは江戸時代にまで遡ります。鎖国の最中にあって清国と交流があった長崎に広まり、京・大坂・江戸へとわたっていったのです。当時は点心を中心とした「卓袱料理」が主だったそう。そして明治期には横浜が開港。清国から多くの人が訪れ、横浜中華街が作られます。また、築地の外国人居留地においても、初めての本格的な中華料理店とも言える「永和斉」がオープン、さらに神田神保町では、中国人留学生のための安価な食堂が集まり中華街の様相を呈していたとか。ただ、いま私たちが食べているような中華料理が一般的になったのは戦後まもなくのことだったようです。ちなみに、1941年までは「支那料理」とよばれていたそうで、1947年頃から「中華料理」という名称が日本の文献でも見られるようになったとか。1960年代には「中国料理」の名称が本場の料理として通じていたようです。

中華料理と言えばホテルのレストランでした

1950年代になると、戦後経済も立ち直り始めます。特筆すべきはGHQの本部が近くに置かれていた田村町。外国人向けにと中華料理店が続々とオープンします。その担い手の多くは中国人で、現在も高級店として知られる「中国飯店」、約300坪の敷地に豪華な中国様式の建物を設えた「留園」、後に「北京」という中国料理店が入る「芝パークホテル」も田村町に開業。これらの中国人オーナーの高級店で、後の有名料理人の多くが修業していました。その中でも異彩を放っていたのが「四川飯店」。日本式の中華料理を広めた陳建民氏のお店ですが、他とは違い大衆店。昼時にはサラリーマンの行列ができるほど人気店だったそうです。こうして料理人の数も、中華料理を楽しむ日本人もどんどん増えていったのです。しかし、1960年代になっても高級中華料理店の勢いはとどまらず、東京オリンピックを契機としたホテル開業ラッシュがさらに後押しをしました。これまでレストラン=フランス料理というイメージを覆し、ホテルで中華料理を食べることが一種のステータスに。そして、1970年に京王プラザホテルが「南園」をオープン。そこには周富徳氏、陳啓明氏、譚彦彬氏という現在の東京、いや日本の中華料理の礎を作ったとも言える料理人が集まっていたのです。

シェフの名前が立った人気店が誕生しはじめる

1980年代になるとホテル中華は全盛を極めます。フカヒレや燕の巣といった高級食材に加えて、ヘルシー志向という潮流に応じて、海鮮や中国野菜をふんだんに使用する。陳建民氏によって広まった四川料理とは異なる、薄味で華やかな広東料理が好まれるようになります。その急先鋒が先ほどの周富徳氏が料理長を務めた「聘珍樓」だったのです。さらに東京の中国料理は香港での流行をとらえ新しい形が生まれ始めます。それが「ヌーベルシノワ」。現在も活躍中の脇屋友詞氏がフレンチの石鍋裕氏とタッグを組んだ「トゥーランドット游仙境」では、イタリアやフランス製の器に、フォアグラなどフレンチの食材を使用し、盛りつけも美しく、合わせるのはワインやシャンパン…、中華料理でありながら洋の要素をふんだんに取り入れた斬新な料理が作られていました。一方で湯島聖堂で中華料理を学んだ山本豊「知味竹爐山房」、石橋幸「龍口酒家」など現在も人気店でクラシックな中華料理を提供するオーナーシェフのお店も登場しはじめます。本国そのままの中華料理を提供する「正宗」なお店。汁なし担々麺を初めて日本人に紹介した趙楊氏の「趙楊」、そして麻辣だけではない奥深い四川料理を教えてくれた井桁良樹氏の「瓢香」。井桁氏のように中国に修業に出る料理人が増えたのもこのころ。前衛であれ、クラシカルであれ、修業先で体験したことを、自らの中華料理観を持って、目の届く範囲の規模の店で表現する、2000年代の中盤以降からこのころから”ハイカジ”化の予兆が現れていたとも言えるのです。

東京中華料理CHRONOLOGY

1926年 銀座アスターが銀座に開店
1932年 目黒雅叙園 北京料理を提供 回転テーブルを考案


【50's】田村町が東京中華のスター!?

1950年ごろ、西新橋は「田村町」と呼ばれていました。大型の中華料理店が立ち並び「リトルホンコン」と呼ばれていたそう。1955年にはが、1958年には陳建民氏の「四川飯店」が開店。当時「中国飯店」で修業していた周富徳氏をはじめ、多くの中華の料理人が田村町で腕を磨きました。

●サンフランシスコ講和条約(1951年)
●朝鮮戦争(1950~1953年)[代表的なお店]麗郷(渋谷/1958年)

【60's】高級中華料理店=ホテル中華の時代

こちらが現在の芝パークホテル。「北京」も健在です

1964年の東京オリンピックを契機に、東京はホテルの開発ラッシュ。なかでもいち早く直営の中華料理店を導入したのが芝パークホテル「北京」。香港から料理人とサービススタッフを召還する本気ぶりだった。その後、オークラ「桃花林」、ニューオータニ「大観苑」と続々オープン。当初は外国人や政財界人の利用が多かったが、徐々に文化人や有名人などにも広まり、時代の先端として認知されるようになった。
●高度経済成長
●日米安全保障条約(1960年)
●東京オリンピック(1964年)[代表的なお店]留園(御成門/1960年→閉店)、華都飯店(三田/1965年)

【70's】中華料理さらなる拡大期

1970年に京王プラザホテルオープン。ここは周富徳氏、陳啓明氏、譚彦彬氏などその後、中華料理界で活躍する人材を輩出しました。また「四川飯店」の陳建民氏ですべてのレシピを公開したり、社長・小笹六朗氏を中心に、チンゲン菜や香菜などの中国野菜の国内生産が始まりました。さらに追い風となったのは、日中国交正常化。本国の調味料や食材が手に入りやすくなり、後の中華料理の発展にむけての飛躍の時代となったのです。
●日本万国博覧会開催(1970年)
●日中平和友好条約調印(1978年)
●オイルショック(1973、1979年)[代表的なお店]随園別館(新宿/1972年)

【80's】高級広東料理の時代

ヘルシー志向による消費者の趣向も追い風に、魚介類を多用し、淡白な味付けの香港式高級広東料理が人気になります。その立役者となったのが「聘珍樓」の料理長に就任した周富徳氏。同時に飲茶ブームも到来。この流れに乗って香港の有名店「福臨門」が日本に進出します。
●コンビニエンスストアの普及
●円高バブル景気に突入
●日本中国料理調理士会(現・日本中国料理協会)発足[代表的なお店]龍口酒家(幡ヶ谷/1983年)、知味竹爐山房(吉祥寺/1987年)

【90's】ヌーベルシノワが香港から流入

80年代の香港で始まった新潮流「ヌーベルシノワ」が日本に上陸。カウンター席でひとりでも楽しめる河田吉功氏の「文琳」や、脇谷友詞氏「トゥーランドット游仙境」がその担い手に。旬を意識し、素材の持ち味を最大限に引き出す調理法、伝統菜の再構築、フレンチのようにひと皿ずつコースで楽しませるスタイル。また、マンゴープリンやエッグタルトなど、香港デザートが流行。
●バブル崩壊(1992年)
●生カップ麺ブーム
●香港返還(1997年)[代表的なお店]龍圓(浅草/1993年)、趙楊(八王子/1994年)、メゾン・ド・ユーロン(赤坂/1995年)、赤坂璃宮(赤坂/1996年)、ジーテン(代々木上原/1999年)

【00's】オーナーシェフが台頭

有名店やホテルで修業を重ねた料理人が独立し、自らの店を持つように。また、中国現地へと修業に赴き、本場と変わらない「正宗」な中華料理を提供するこだわりの料理人も登場。このようにシェフの個性に注目が集まるトレンドに。
●中国政府が「紹興で作られ、鑑湖の水を仕込み水として使用した物だけを紹興酒とする」と定める
●アメリカ同時多発テロ発生(2001年)
●愛知万博(2005年)[代表的なお店]Wakiya一笑美茶樓(赤坂/2001年)、ロンフウフォン(白金/2002年)、趙楊(銀座に移転/2004年)、桃の木(三田/2005年)、瓢香(代々木上原/2005年)、神田雲林(神田/2006年)、エッセンス(青山/2007年)、五指山(松陰神社/2007年)、美虎(幡ヶ谷/2008年)、レンゲ(新宿/2009年)、わさ(八雲/2009年)

【10's】

ハイカジの時代!

取材協力:中華・高橋、瓢香(井桁良樹シェフ)

※こちらの記事は2014年7月20日発行『メトロミニッツ』No.141に掲載された情報です。

更新: 2016年10月24日

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