|尊敬できる鮨[2]|
ROAD OF THE SUSHI”すしがたどってきた道”

古代から江戸の頃まで、「なれずし」は朝廷や幕府への献上されていたほど由緒ある食べ物です。「早ずし」は、江戸庶民の食生活をひと際豊かに変えました。ここでは、そんな「すし」がたどってきた数々の時代を簡単に振り返ります。

はじめに。まずは少し考えてみてください。「すし」とは一体何でしょう?調べてみてもなかなか明確な定義は見つけにくいのですが、魚料理か米料理か、料理ではなく酒肴なのか。稲荷ずしなどもあるので一概に「魚介類とお米を使ったもの」とも言い難く、海苔巻のような気軽なものから、ばら散らしのようにお祝いの席で食べるご馳走まで、様々な形の「すし」があります。しかし、江戸時代の政治家であり儒学者の新井白石が著した語源研究書『東雅』には「すしの語源は、『酸し』である」と書かれているそうで、やはり"酸み"がカギを握るよう。「すしとは、酸みのある米飯と具材を組み合わせた食べ物」ということになるのでしょうか。さて、現在のすし飯の"酸み"の元は当然「お酢」ですが、江戸時代以前は「米飯が自然発酵し(主に乳酸発酵)、発した酸み」でした。その酸みの違いは、言い換えれば「なれずし」(自然発酵)から「早ずし」(酢飯)への変遷のことであり、「魚を保存する」から「ご飯も美味しく食べる」への推移でもあります。

すしの先祖・なれずし。写真は、近江のフナずし

【古代~室町】なれずしの時代

長い年月、米飯に抱かれ眠り
酸みをまとう「すし」の先祖

わが国最初の「すし」に関する記録は、大化の改新から73年目の奈良時代、藤原不比等らが編纂した『養老令』(718年)の中だそうです。朝廷への貢納品として、「鰒鮓(アワビスシ)、貽貝鮓(イガイスシ)、雑鮨(ザツノスシ)」との記載があるという(第10巻・賦役令)。しかし、それ以前はいつからどのように「鮓」や「鮨」が日本で広がったのかはわかっておらず、具体的にどんな食べ物だったのかは不明ですが、おそらく「なれずし」であっただろうと考えられています。その理由は、『養老令』よりはるか昔、紀元前から中国や東南アジアの国の中には「なれずし」に類似した保存食が存在し、『養老令』にも登場している「鮓」や「鮨」という文字は中国からの舶来語だからです。中国では「鮨=魚の塩辛、鮓=魚の漬け物」として使われていた文字で(2文字はやがて混同され、同じ意味を表すように)、それが何らかのルートで日本に入ってきたのではないかとされています。

なれずしの一種「いずし」。魚、飯、塩、糀、そして大根や人参などの野菜を混ぜるのが特徴的な発酵ずしで、北海道~東北地方の伝統食

そんな「なれずし」とは塩蔵した魚介類を米飯に漬け込み、自然発酵(乳酸発酵)させたもの。酸みも香りも大分強めで、完全に発酵された米はドロリと溶け、中に保存されていた魚を食べるための珍味です。漬けてから食べるまでは、数カ月から数年の年月を要します。そして「なれずし」の転換期は、時代がグッと進んで室町時代中期。「生なれずし」の誕生でした。それは2週間から1カ月程度まで、漬け込み期間を短縮した「なれずし」。かつて身分の高い人しか口にできなかった米に手が届くようになった庶民の間に「すし」が伝わり、「米を捨てるのはもったいない」と浅漬けのすしを作り始めたのです。徐々に、最短で3〜4日間など、漬ける日数がさらに短いものも出現し、発酵促進のために酒を加えて漬け込むというものも現れます(やがて「酒ずし」に)。現存する「なれずし」としては、近江・琵琶湖のフナずしが最も有名です。美濃の鵜匠家でのみ受け継がれてきたアユのなれずしは天下の逸品との誉れ高く、江戸幕府に献上されていました。

【室町以降】早ずしの誕生

写真は、昨年9月開催の「御鮨街道市民ウオーク」の風景。江戸時代、長良川のアユのなれずしを将軍家に献上するために一行が通った岐阜街道は、「御鮨街道」や「鮎鮨街道」と呼ばれている

江戸時代に広がった"お酢革命"握りずしが町を席巻した(本文)室町後期には、より手軽な方法が考案されます。酸みは"発酵"に拠らず、お酢を加えてしまおうという「早ずし」です。そして江戸時代後期には「すし」の歴史を塗り替える、花形スターが生まれます。"江戸時代のファーストフード"と称されるあの「握りずし」です。その躍進の影には、内店(主に出前と持ち帰りのすし屋)や屋台の存在がありました。初め、江戸の町には飲食店などほぼありませんでしたが、明暦の大火(1657年)で町の3分の2が焼失。その復興のために各地から職人が集まってきて、彼らの食事を賄うために外食産業が自然発生しました。そもそも江戸は、何もなかった土地に幕府が一から築き上げた都市。その工事のために集まっていた職人をはじめ、参勤交代で江戸詰めになった藩士、上方からやってきた大店の使用人、仕事を求めて出稼ぎに来ていた人など、とにかく単身男性の人口が多い町でした。また、庶民の多くが長屋住まいで、狭い台所で煮炊きなどをして、火事でも起こせば大罪になることもあって、出前、持ち帰り、屋台なども増加。早い・安い・美味い、そして満腹になるすし屋台は、特にガテン系の職人の間で大人気に。握りずしが誕生したのは文政年間(1818〜1830年)の初め、華屋与兵衛という人のすし屋が始めた、との定説があります。その前の時代は、「押しずし」が主流でした。押しずしは酢で味付けした魚と飯を箱に詰め、2〜3日間重石を置いたもの。少し時間を置くのは、鮨ダネと飯の味を馴染ませるためで、屋台ではケーキのように1ピースずつにカットしたものを売っていました。それが、華屋与兵衛がアナゴ、エビ、イカなどを味付けし、握った飯の上にポンとのせて出したところ、短気で職人気質な江戸っ子にぴったりだったようで大ヒット。瞬く間に江戸中のすし屋が「握りずし一色」になったそうです。ちなみに江戸のすし屋台とは、「品書きの中から好きなネタを握ってもらったら、どんぶりに入った醤油を引き寄せ(醤油は客全員で1つを共有)、立ったまま手で食べる。食べ終わったら、湯呑に残しておいたお茶で指をすすぎ、暖簾で手をふいて、サッと帰る」というスタイルでした。ところで、江戸時代と現在の握りずしにはいくつかの違いがあります。1つめは、すし飯に味が付いていたこと。甘辛く煮たシイタケや海苔、おぼろなどで味が付いていました。また、鮨ダネにも酢、しょう油、塩などで味付けがされ、生のまま出されることはあまりなかったようです。また、江戸の前の海で獲れる魚介には限りがあり、鮨ダネの種類が少なかったこともあります。さらに、江戸を代表する魚・シラウオやハマグリなど、今では使わないネタが握られていたことも。握り1貫は現在の3倍ほどの大きさで、2〜3貫で満腹になったと言います。やがて、鮨ダネに革命が起きたのは、明治30年代。天然氷ではなく機械製氷の氷が広がったことが要因の1つです。氷が手に入りやすくなり、さらに冷蔵箱ではなく電気冷蔵庫も定着。鮮度を保ったまま魚介を扱える環境が整いました。また、近海漁業の漁法や流通の進歩もあり、ネタの種類も多彩に。それに伴い、酢で〆たり醤油漬けにせず、ネタを生のまま扱う店が次第に増加するようになったのです。

【野根キッチン】電話0887・24・1910(毎週土曜のみ営業・全国配送もあり) http://sea.ap.teacup.com/8013/

押しずしや箱ずしの原型と言われる「こけらずし」。酢飯の上に薄く切った具をのせていく。主にお祝いの時に食べるものとして各地に存在し、特産品を用い、それぞれ地域色豊か。
写真は高知県東洋町に伝わる「こけらずし」で、かつて祝い事や神祭の度に作っていたもの。米6升を使うという巨大さ(約85人分)で、押し固められた飯の独特の食感はなかなか他では味わえません。焼いた鯖の身をほぐし入れた柚子酢で酢飯を作り、人参、椎茸、薄焼き玉子を彩りよく並べる作業を数段行います。この伝統の味を守っていきたいと、地元の女性グループ「野根キッチン」が週1回のペースで作っています。

すしの変遷

写真右は昔の、左は現在の握りずし。食糧難だった太平洋戦争時、すし屋に米1合持参したら、それに見合う量のすし10貫が買えるという制度ができ、以来、その大きさが定着

※こちらの記事は2015年2月20日発行『メトロミニッツ』No.148掲載された情報です。

更新: 2016年10月20日

この記事が気に入ったら
「シェア」しよう

最後までお読みいただき、ありがとうございます

pagetop