東京|ホテルレストランのチカラ #1

ムッシュの履歴書
東京のホテルとフランス料理

東京ドームホテル
鎌田昭男さん

Photo 小林秀銀

「東京のホテル」と日本の「フランス料理」の歴史を遡ってみると、足並みを揃えるように、ともに成長してきた時代がありました。近年はそれぞれの道を歩むようになりましたが、その時代はすごいスピードで動き続けてきたようです。さて、初めにお届けするのは、東京ドームホテル総料理長・鎌田昭男ムッシュの長い履歴書。料理人という仕事と50年以上向き合ってきた、そのお話の中には、「東京のホテル」と「フランス料理」の過去・現在・未来を感じることができます。

Akio Kamata

1943年生まれ、東京ドームホテル総料理長。今年で75歳、もちろん現役。「私は情熱だけは死ぬまで持っているつもりですし、自分の信念を守るためなら喧嘩だってします。そのためなら『いつ辞めても良い』とも常に考えていますよ。プロフェッショナルとは、そうあるべきでしょう」

Prologue

 時は、昭和46(1971)年。時代は高度経済成長真っただ中で、7年前に開催された東京オリンピックを契機に暮らしにはさらなる変革が起き、新・三種の神器「3C」(カラーテレビ・クーラー・カー(自家用車))がほぼ普及を果たしていました。一方、街にはホテルが続々と立ち並び、メインダイニングではフランス料理を提供するのが鉄板の法則に。そんな「ホテル=フランス料理」という構図のある反面、一般的にはまだ遠い存在だったフランス料理。しかし、ホテルオークラの小野正吉ムッシュ、帝国ホテルの村上信夫ムッシュなどのホテルの巨匠たちが、例えば、NHKの『きょうの料理』に出演するなど、マスコミを通じてその魅力を広く伝えていました。さて、これより東京ドームホテルの総料理長、鎌田昭男ムッシュにバトンタッチ!鎌田ムッシュがヨーロッパへ渡ったのはこの頃、昭和46年のことだったと言います。

駆け出しの頃、日本での6年間

 私がフランスで修業を始めてから2~3年ほど経った時、時代の大きなうねりを目撃しましたね。世の中の料理が一気にパッと〝ヌーベル・キュイジーヌ〟(ページ下にて解説)に取って代わったのです。それまでは伝統的なフランス料理を作っていた店々が、急に全く違う料理を出すように。料理のベースはそれほど変わりませんが、こってりしていた味付けが軽くなったことは間違いありません。本場フランスであっても新たな価値観に圧され、こんなにも料理は進化するのかと、時代の変化の速さに後れを取ってはいけないと肝に銘じました。

 ヨーロッパでの修業は、もともと6年間と決めていました。それ以前は、日本で調理学校に通った後、オリンピック直後の昭和40(1965)年頃からいろんな店で働いていましたね。日本での修業期間もきっちり6年間。当時、日本のフランス料理には、帝国ホテル系、ニューグランド系、日活系、日本郵船系のように出自別の流派のようなものがあり、6年間で全て渡り歩こうと考えました。どこも半年程度の短期間にはなりますが、修業の立場で料理の腕前がそこまで上がるわけではありませんから、まずは各系列を見て、日本の料理界はこういう形になっているという全体像を把握した上で、本場フランスへ渡ろうと思ったのです。かつて横浜のホテルニューグランドには、日本のフランス料理の黎明期に活躍したスイス人シェフのサリー・ワイルさんという方がいて、その弟子だった荒田勇作さんが率いる「キャッスル」へも行きましたし、あとは「丸の内西洋軒」「銀座日航ホテル」「帝国ホテル」、そして東洋軒系の「クレッセント」。特に、「クレッセント」は料理がずば抜けて美味しいだけではなく、料理人として大切なことを教えてもらいました。ただ、振り返ってみると、当時の日本のフランス料理は全体的に「フランス料理に近い西洋料理」だったと思います。技術も食材も本場には追いついてなく、ソースのベースなどがフランスの味ではありませんでしたね。

フランスで学んだ、次の6年間

 フランスでは、スイス、ドイツ、イタリア、スペインとの国境沿いの街にあるレストランをめぐり、最後にパリの店へ。レストランは、ミシュラン三ツ星、二ツ星、一ツ星からカジュアルなビストロ、ブラッセリーまで、ことごとく回りました。国境沿いの街というのは、隣接する国と同じような食べ物が結構あり、アルザス地方はドイツのようにソーセージが充実していたり、ジュラ地方の場合は、スイスのジュラ地方にもまたがっているため、全く同じチーズがありました。でも、味は少し違います。土地の空気感はさほど変わりませんが、国によって、味も料理もやはり違うのです。このように地方を体験してから、最後にパリへ入り、フランス全体を見てくるという計画。もちろん、料理人という仕事に夢を抱いている人間というのは、ずっとパリの三ツ星で働いていたいわけですが、地方のブラッセリーで働く楽しさも苦労も、そして独特の価値観も、知っておいて損はありません。例えば、三ツ星レストランのキッチンでは、小さなミスも絶対に許されませんでした。頂点にいる以上、後は落ちるしかないわけですから真剣勝負です。私も三ツ星は全5軒回りましたが、仕事が終わったら喉はガラガラ、忙しくて3~4時間しか眠れなくても、コックコートを着たら「よし」と気合を入れる毎日でした。ブラッセリーの場合はアバウトで、100人近く席がある店で働いていた時も「今日は、お前1人でやって」と急に言われたりするのです。1人でやるなど、とんでもないと言っても、「おまえだったらできる」と。いずれにしても、フランス人には「不可能を可能にする」という考え方があるようで、「こうすれば絶対にできる」と限界まで挑戦するのが料理人という仕事なのだと実感しました。日本の料理人は、せっかく修業に出ても星付きレストランへ行き、わずか1~2年程度で戻ってきてしまう人がほとんどですが、たとえ三ツ星レストランでも、歴史、風土、人などの背景があってこそ生まれた文化の1つ。他国の料理を作る仕事をする以上、もっと文化に深く入り込まないと、自分の「哲学」など育てられないのではないでしょうか。

「ホテル」へ至るまでの道のり

 昭和52(1977)年、帰国した私は、いつか自分の店を持ちたいという夢を持ちながらも、六本木にあった20席程度のレストランのシェフに収まりました。本当は、「このままこの小さなレストランで働いていくのは、ちょっと違うかもな」と迷いながら働いていましたが、80年代に入るとバブルの後押しもあって、街では華やかなフランス料理がメディアを賑わせるようになり、店も次第に人気に。そんな時、かつてフランスでお世話になった三ツ星、二ツ星のシェフが立て続けに来日し、私のレストランへ食べに来て、「お前はこんなところで何をしているんだ。お前だったら、もっと高級なレストランでも、最高級のホテルでも絶対にできるはず。馬鹿野郎!」と、2人ともに怒られてしまったのです。やはり、フランスの超有名シェフに直接そんな風に言われたら、すごく嬉しいじゃないですか。こうしてはいられない、自分で店をやろうといよいよ契約寸前までいったところで、なんと頓挫。倒れてしまったのです。「ああ、このまま死ぬのかもしれない」というほどの病気でした。そして、休んでから1年くらい経ったある日、ある人物がやってきて、「今度、銀座に小さいながらも最高級のホテルを作るのだが、そこで料理長をやってくれないか?」と言いました。しかし、まだ体調が優れないのと、自分で店をやるつもりだったので、すぐに辞退。ただ、その人はその後、半年の間に3回くらいやって来るのです。その間、徐々に元気を取り戻しながら、次第に「これくらい小規模で、これほどの高級ホテルなら、自分ならこうするな」などと考えるようになり、「個人店と違い、ホテルなら組織だから、以前の3分の2くらいの体力しかない自分でも、周りに助けてもらえばやっていけるのではないか。むしろ、弱っているくらいの方が周囲と喧嘩もしないで済むのでは?」などと思うようになり、「ホテル西洋銀座」の総料理長に就任したのが昭和61(1986)年のことでした。

GUIDE 1
「ヌーベル・キュイジーヌ」とは?

宮廷料理をルーツに持つ古典的な料理「オート・キュイジーヌ」が主流だったフランスで、60年代後半から70年代初頭、瞬く間に市民権を得た新しい料理が「ヌーベル・キュイジーヌ」。社会的に健康や自然環境への配慮が高まる中、技巧を凝らし、バターなど脂肪多めの料理ではなく、新鮮な食材を生かし(輸送技術の発達で、遠方の食材が入手しやすくなったことも)、よりシンプルな調理法で、味付けも軽めに。そして、シェフの創造力を加えることが良しとされた料理です。その旗手は、先月91歳で逝去されたポール・ボキューズ氏、トロワグロ兄弟、アラン・シャペル氏など当時の新進シェフたちでした。

これからの仕事の舞台「ホテル」

 私はフランスへ行く前、日本でホテルの調理場もいくつか経験していましたので、街のレストランとホテルの違いは重々承知していました。例えば、お客様は9割以上がメニューを見て、その中からオーダーしますが、時に別の注文をおっしゃることがあります。街のレストランでは「できません」とはっきり言うでしょうが、最高級のホテルでは「お客様に満足していただくこと」が絶対条件のため、ノーは言わないのが基本です。味噌汁が飲みたい、寿司が食べたいと言われても、「近所に店などたくさんあるだろう。どこか行って分けてもらってこい」という具合に、徹底したサービスが五ツ星ホテルの良いところ。毎日仕事が終わった後に、「どうしたらよりお客様に楽しんでいただけるか」をアルバイトも含めてスタッフ全員が次の朝までに考え、朝礼で案を出し合うとか、組織で作っていく面白さがあるのがホテルの現場です。

 しかし、五ツ星でも二ツ星でも、本来、ホテルのサービスにとっては関係のないことです。信念を抱いた人が集まってさえいれば、そのホテルは四ツ星にも五ツ星にもなるはず。私も、明日も食べたくなるような料理を創造したいとか、記憶に残る料理を生み出したいとか、そんな思いをどの現場でも常に抱いてきましたが、正直、料理には価格が付き物です。ビストロ、ブラッセリーでは最高級の食材は使えませんが、お金以上の価値がある料理を作り出すことは必ずできます。今、自分には何ができるのか考え、置かれた状況の限界のところで最上級の料理を作ること、そこに妥協は要りません。

 14年間勤めた「ホテル西洋銀座」を辞めた後、私は平成12(2000)年オープンの「東京ドームホテル」の総料理長になりました。

 東京ドームホテルは、五ツ星の西洋銀座とは打って変わってアーバンリゾート。客室数わずか77の西洋銀座に対して、客室数1000室超の巨大ホテルで、隣接した東京ドーム、遊園地の帰りに立ち寄れるようなホテルのため、常連の顧客は多いわけではありません。レストランでもフェアなどのイベントを行いながら、いつ訪れても楽しい時間が提供できるような仕掛けを考えています。あまり料理の値段を高くはできませんので、高級食材ばかりは使えませんが、本格的にソースを作り、美味しいフランス料理に仕上げています。ただ、宴会場にはさらに高いレベルの料理を求めていらっしゃる方もいますので、その時には私が作ったりして、最上級のおもてなしをします。そこが非常に重要なポイントで、普段はリーズナブルなレストランかもしれませんが、実は上のレベルにも対応できる力を秘めた料理人が揃っていることで、ホテルの価値はグッと高まります。あとは、ただ一流の気持ちがあれば良いだけ。

 今、イタリアンの落合務シェフ監修メニューを提供するフェアを開催中(~3月31日)ですが、定期的に外部から有名シェフを招いてコラボレーション企画を行っているのも、お客様に楽しんでいただきたいことはもちろん、実はホテルの料理人たちのためでもあります。「お前もこうなれ」とか「勉強できるチャンスだぞ」と刺激を与え、5年先、10年先、もしここを辞めて他の店へ行ったとしても「東京ドームホテル出身の料理人は一流だ」と言われたいですし。人が育つまでには時間がかかりますが、最近、フランス料理では16年間育てた者と14~15年育てた者がシェフになり、ここ3~4年で全体的に相当良くなってきましたね。

時代は変化する、それこそ必然

 時代は、ものすごいスピードで変化していくもの。そう心に刻み、私は常に時代ごとの価値観に合わせて仕事をしてきました。そして、今や東京は、世界中の料理が何でも揃い、質の高いレストランの数は海外のどの都市よりも群を抜いて多く、世界一の食文化を持つ街に成長。若手シェフたちが作る個性的なフランス料理も面白いなと思って見ていますよ。そんな東京で、ホテルのレストランでしか提供できないものとは一体何でしょうか。

 かつては、ホテル=フランス料理の時代がありました。しかし、やがてシティホテル=多種類のレストランを構えるという時代が訪れ、「ホテル」と「フランス料理」はそれぞれの道を歩み始めることに。昨今のホテルは、食材費も高く、稼働率も良くはないフレンチレストランなど持っていないホテルがほとんどですよね。また、テナントのレストランが多い、レストラン自体を持たないホテルも増えています。

 ホテルの基本は「3B」。バスルームとベッドルームとブレックファースト、この3つさえあればホテルは成立するのです。東京ドームホテルはアーバンリゾートのホテルに近いため、いろんなレストランがあった方が楽しいと言われるのかもしれませんが、今は「何でも充実していること」が良いサービスとは限りません。 例えば、フランスでは、昔から高級レストランを抱える大きなホテルがある一方、街中に星付き店からブラッセリーなどのカジュアル店までが揃う美食の街のため、路地裏の小さなホテルにはレストランはないこともしばしば。簡単な朝食だけ用意できれば良く、人件費もかからないため、家族経営で十分です。また、日本の高級旅館は、仲居さんがベッドメイキングから料理のサービスまで何でもやってくれる効率の良さがありながら、それが一流のおもてなしにつながっていますよね。そんな風に、改めて様々な文化を見直してみても、これからのホテルの将来へのヒントが見つかるのではないでしょうか。

2000年開業

43階からの眺望も自慢!
東京ドームホテル
東京ドームシティ内にあるホテル。雰囲気はカジュアルながらも、総料理長はフランス料理界の重鎮・鎌田昭男さん、建築設計は丹下健三さんの作品という上質さを秘めている。レストランでは、フェアやイベントを定期的に開催

☎03・5805・2111(代表)
東京都文京区後楽1・3・61

ホテル内でフランス料理がいただけるのは、6Fダイニング「ドゥ ミル」(上の写真)。本格レストランながらも、ランチ4,104円~、ディナー6,480円~とお手頃(各サービス料別)。眺望も美しい43Fのサウンドステージ&ダイニング「アーティスト カフェ」では、現在、イタリアンの有名シェフ・落合務氏プロデュースのメニューを提供中(3月31日まで)。シェフのスペシャリテ・新鮮な雲丹のスパゲッティを含む、プリフィクススタイルのディナーコース6,480円~を用意している(サービス料別)

GUIDE 2
「東京のホテル」と「フランス料理」の歩み

明治〜昭和時代・前半
(第二次世界大戦終戦まで)

【東京のホテル】
外交の場であった、日本のホテル初期
初め、日本のホテルは「海外の賓客を迎える場」として求められた。明治時代に突入し、これから西洋諸国と渡り合い、海外の要人をもてなす社交の場が必要だと、日本人が初めて手掛けたのが「築地ホテル館」(明治元年開業、明治4年休業)。ただ、明治の半ばになっても、東京のホテルは「築地精養軒ホテル」(明治9年開業)と「東京ホテル」(明治20年開業)の2軒に留まっていたらしく(当時、築地にあった外国人居留地にはホテルもあったが)、いよいよ世界に誇る本格ホテルを目指し、明治23(1890)年に開業したのが「帝国ホテル」だった。その後、東京駅開業の翌年(大正4年)には「東京ステーションホテル」、関東大震災(大正12年)の復興のシンボルとして横浜に「ホテルニューグランド」が完成するなど、時代ごとに素晴らしいホテルが徐々に生まれていった。

【フランス料理】
海外の賓客をもてなす席にある料理

明治3年、政府は「正餐(正式で、最も格式の高い宴会料理)にはフランス料理」と定め、海外の賓客にはフランス料理を提供することになった。当初は、西洋料理を作れる料理人はほぼおらず、宮内庁の料理人を横浜居留地の外国人ホテルに修業に出すなど取り組みながら、国家事業として「築地精養軒」(レストラン)や「鹿鳴館」などを建てていった。

戦後~1960年代
(主に、高度経済成長期の頃)

【東京のホテル】
経済とともに、日本のホテルも成長
戦後、GHQに接収されたホテルの多くが再開したのは昭和30(1955)年頃。その時期はまさに高度経済成長期の幕開けの頃で(~昭和48年)、昭和39(1964)年の東京オリンピック開催も決定。ホテルの建設ラッシュが始まった。例えば、パレスホテル東京(1961年)、ホテルオークラ東京(1962年)、東京プリンスホテル(1964年)、オリンピックに向けて政府が設立を要請したというホテルニューオータニ(1964年)、日本初の外資系・東京ヒルトン(1963年)などで、1960年代は「第一次ホテルブーム」と称されている。また、東京オリンピックのおかげで、新幹線、高速道路などの交通インフラが整い、大阪万国博覧会(1971年)、札幌冬季オリンピック(1972年)など、地方の大きなイベントにも足を運びやすくなった。そのため、これまでは外国人の旅行客がメインターゲットだったホテルを、日本人旅行客が利用する機会も増えた。

【フランス料理】
素晴らしきホテルシェフの時代

まだ街には本格的なレストランが少なかった時代で、「フランス料理」をけん引していたのは、海外のお客様が多かったホテルのレストランだった。ホテルオークラの小野正吉さん、帝国ホテルの村上信夫さんという2名の巨匠が有名だが、他にも歴史に名を残すホテルシェフが多数活躍。また、社会情勢にも安定し、本場フランスへ修業に行く人も次第に増えていった。

1970年代~1980年代
(高度経済成長期からバブルへ)

【東京のホテル】
時代のトレンド、シティホテル

1970年から80年代にかけては、1つの「街」のようなホテルが増えた時代。宴会やブライダル、レストランの他に、ショッピング、病院、サロンなどといった健康・文化・生活施設を備えた大型シティホテルが現れた。さらに、タワーを増築したり、商業施設を併設するホテルも話題に。また、1970年代半ばを過ぎた頃には、団塊世代が適齢期を迎え、ホテルでの婚礼も増加した。さらに、1970年代以降は、戦前からの電鉄会社の他に、航空会社、不動産会社など、異業種のホテル参入も見られるようになる。そして、1980年代は旅行代理店による団体旅行が流行し、リゾートホテルに行く人も増え、バブル絶頂期の1980年代後半は、クリスマスイブには5種の神器「車、花束、貴金属、高級レストラン、シティホテル」と言われた。

【フランス料理】
花のフランス料理時代

1970年代前半頃、“ヌーベル・キュイジーヌ”が広がるフランスへ修業に出る人がさらに増加。一方で、先の時代に修業に出た人たちが帰国し始め、街にフランス料理店が次第に増えていった。80年代にもなると帰国する人はさらに増加し、バブル景気の中で、華やかなフランス料理は雑誌などでも特集が組まれるように。フランス料理は、人気の絶頂期を迎える。

1990年代~2000年代
(バブル崩壊後)

【東京のホテル】
華やかな海外のホテルが上陸

1991年2月、バブル崩壊により1973(昭和48)年12月から続いた安定成長期が終焉する。業績悪化が進む日本のホテル業界に対し、外資系ホテルが続々と進出。特に、フォーシーズンズホテル椿山荘 東京(1992年)、パークハイアット東京(1994年)、ウェスティンホテル東京(1994年)の外資系3ホテルは「新御三家」と呼ばれた。また、1995年にはゆりかもめが開通し、1997年にはフジテレビがお台場へ移転。ホテル インターコンチネンタル 東京ベイ(1995年)など、湾岸エリアにもホテルが建つように。2000年代に突入しても、都心部の再開発が進んだため、さらに外資系ホテルの進出が続く。グランド ハイアット 東京(2003年)、コンラッド東京(2005年)、マンダリン オリエンタル 東京(2005年)、ザ・リッツ・カールトン東京(2007年)、ザ・ペニンシュラ東京(2007年)など。

【フランス料理】
フランス料理、冬の時代

不景気の中、「高い・重い・堅苦しい」というイメージのフランス料理は、「おしゃれ・カジュアル・ヘルシー」なイタリア料理に人気を奪われがちになる。また、レストランの数も少しずつ減り(実力のある名店はもちろん健在)、庶民的なフレンチの“ビストロ”が徐々に増加するように。また、2007年には『ミシュランガイド東京』発売が話題になった。

※こちらの記事は2018年2月20日発行『メトロミニッツ』No.184に掲載された情報です。

更新: 2018年3月5日

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