|東京エリートレストラン|
世界に自慢したいフランス料理のシェフ[3]
「東京のフランス料理店 進化録」明治~大正~昭和編

時代ごとに読む”年表”
|東京のフランス料理店 進化録|
The French cuisine in Japan

フランスに引き続き、今度は東京の歴史です。「東京のフランス料理店」と「フランス料理のシェフ」の変遷をご紹介します。

[明治頃~大正時代] 明治、「西洋料理」から幕が開く

“料理の神様”のエスコフィエが料理長を務めた「ホテル・リッツ」がパリに開業したのは1898年。この後で、エスコフィエは「フランス料理」を集大成させていくことになる。その1898年とは、日本では明治31年。では明治期、東京の「フランス料理」はどうだったか?を振り返ってみれば、フランス料理を目指しながらも、どこの国の料理か定かではない「西洋料理」が興った頃だった。この頃、世界的にフランス料理は格式の高い料理とされ、正式な場にはフランス料理を出す国が多かった。明治政府も「正餐にはフランス料理」と定め、「欧米に追いつき追い越せ」の機運の中で、国家プロジェクトとしてフランス料理(西洋料理)を振る舞う「築地精養軒」や「鹿鳴館」を建てた。同時に渡航し始める人が現れたり、在留外国人に学んだり、「フランス料理」に至るまでのウォーミングアップの時代。ついに真打登場、本格的なフランス料理のシェフで“天皇の料理番”秋山徳蔵が活躍するのは大正に入ってからのこと。

[Chapter1]西洋料理の聖地のような場所だった築野のレストラン「精養軒」

出典:上野精養軒

明治に入ってすぐ、日本は「外国の高官をもてなせるレストラン」が必要になった。そこで、建てられたのが「築地精養軒」(開業当初は「精養軒ホテル」)。さらに、明治9年には上野公園開設に伴い、公園内の食事処かつ社交の場として、支店の「上野精養軒」が開業した。これら精養軒のおかげで、来日する外国人に西洋料理を振る舞えるようになり、日本の若い料理人を育てる環境ができたのだ。ちなみに、西洋の食事作法を身に付けることを義務付けられた海軍の士官には、精養軒に行くようにとの指示があった。精養軒の領収書を何枚持っているかまでチェックされたという。

[Chapter2]日本初のフランス料理の巨匠 宮内省主厨長・秋山徳蔵

写真提供:文藝春秋

1912(大正元)年、秋山徳蔵はフランスでの修業が3年目に突入していた。秋山が親に莫大な借金をして渡仏したのが20歳の頃、当時は弱冠23歳。しかし、渡仏しほどなく腕が認められ、なんとホテル・リッツでエスコフィエの下で働いていた。そんな矢先に大使館経由でとてつもない依頼が舞い込む。「大正天皇の即位式が行われ、各国からの賓客をもてなす晩餐会がある。その料理を担当せよ」と。準備期間は1年。当時、宮中には和食の料理人しかおらず、秋山の仕事はフランス料理の基本を教えるところから始まった。この大役を最上級のフランス料理で見事成し遂げた秋山は以降、大正・昭和にわたり、晩餐会から日々の食事までを取り仕切る“天皇の料理番”となる。昭和天皇が40半ばになり、洋食より和食を好むようになれば、天ぷら専門店に揚げ方を習いに行き、生ものを敬遠する宮中の慣例を退け、天皇の前で寿司を握ったこともあるという。1972(昭和47)年、84歳になった秋山は引退を決意する。宮中に勤め始めてから58年が経っていた。

【昭和初期?60年代】偉大なるホテルたちの存在で日本に「フランス料理」が根付き始めた頃

1923(大正12)年、関東大震災に見舞われた東京は、一面、廃墟と化す。ただし、この大惨事は、翻ってみれば日本のフランス料理界にとっては実は怪我の功名となっていた。震災が「ホテルニューグランド」を生み、ニューグランドの存在なくしては「日本のフランス料理はあと20年遅れをとっていた」と言われている。その理由は、シェフのサリー・ワイル。ワイルは新たな改革で人々を驚かせ、優れた日本人シェフを何人も育て上げた。さらに時代は進み、戦後の復興の後には、高度経済成長が待っていた。ホテルの建設ラッシュが始まり、どのホテルもメインダイニングではほぼフランス料理を提供。「フランス料理を食べるにはホテルのレストランで」という時代の全盛期となり、ホテル界のスターシェフが2人登場する。

[chapter3] サービスで人々を魅了し、優れた料理人たちを育て、フランス料理の礎を築いたホテル

1927(昭和2)年、関東大震災からの復興のシンボルとして建設された、ホテルニューグランド。初代総料理長は、スイス人のサリー・ワイル 。ワイルはフランスで活躍をしていた時に、エスコフィエの薫陶を受けた。ワイルがまず取り組んだことは、“襟を正して緊張しながら食べる”というフランス料理の堅苦しいイメージを変えることで、気軽に楽しめるグリルルームを開設した。また、コース料理の他に、ア・ラ・カルトをメニューに取り入れたことも画期的だった。ワイルは自らテーブルを回り、カタコトの日本語でお客に声をかけるような温和な人柄だったそうだが、やがて日本のフランス料理界の父となる。ワイルの下からは若い才能が次々と育ち、彼らは“ニューグランド系”のシェフと呼ばれて次の時代の担い手となっていく。

これまでにニューグランドに宿泊したのは、チャーリー・チャップリン、ベーブ・ルース、ジャン・コクトー、池波正太郎、大佛次郎、石原裕次郎、松田優作など。中でも、戦後、マッカーサーが2回宿泊しているという。1回目は1937年、新婚旅行の帰路。2回目は戦後、1945年にSCAPとして来日した時。マッカーサーが当時宿泊していた315号室は、「マッカーサーズスイート」として今も宿泊でき、本人が実際に使用したライティングデスクとイスも残されている

ワイルは、調理場にローテーション制を導入した。それまでは、肉料理、魚料理など、各自に持ち場があり、同じ仕事に何年も従事するものだったが、いろんな現場を経験しなければダメだと、短期で移動する仕組みを作った。ちなみにワイルの料理は、イタリア、ドイツなど各国の料理のエッセンスを加えたフランス料理だったという。ワイルは約20年を日本で過ごし、戦後、帰国。しかし、その後も日本からスイスへの料理留学の世話をするなど、日本の若手料理人たちの父であり続けた

本館は、1927年開業時から残る建物。銀座和光などを手がけた渡辺仁による設計で、1992年には横浜市歴史的建造物に指定。2007年には、経済産業省が選んだ近代化産業遺産の認定を受けた。右の写真は、ニューグランドのシンボル的存在、本館の大階段。左は、開業当時にメインダイニングだったフェニックスルーム。ホテル名は公募で決まったが、最後まで候補に残っていたのが、震災復興の願いを込めた「フェニックス」で、社章や館内の装飾でフェニックスの姿を見ることができる。

[ホテルニューグランド]TEL:0456811841 神奈川県横浜市中区山下町10 http://www.hotel-newgrand.co.jp/

 

テキスト:野中ゆみ(メトロミニッツ編集部)

※こちらの記事は2014年11月20日発行『メトロミニッツ』No.145掲載された情報です

更新: 2017年9月3日

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