TOKYO ELITE RESTAURANT|世界に自慢したいシェフ

|アイデンティティのあるイタリア料理のシェフ[5]|
時代を切り開いた立役者たち
ー1970年代ー

日本のイタリア料理のはじまりは明治時代まで遡ることはできますが、大きく動き始めたのは、まだここ30年くらいでしょう。月日としては浅いかも知れません。でもそれは、おいしいイタリア料理を私たちに伝えようとしてくれたシェフたちの熱くて濃い情熱の歴史でもあります。そんな歴史をイタリアの食文化に精通する河合寛子さんと土田美登世さんに振り返っていただきます。

|1970年代|国際派へデビュー。本場への憧れと意識の芽生え

日本人がイタリアをリアルに感じた2つの大きな国際イベントがありました。1つは1964年の「東京オリンピック」。諸外国から多くのオリンピック関係者、応援客が来日しました。

先の「アントニオ」にもイタリア人だけではなくアメリカ人やスペイン人が押しかけ、パスタやピッツアを食べていたそうです。そのおいしそうで楽しそうな様子は雑誌やテレビ、新聞でも紹介されました。そしてもう1つが70年に開催された「日本万国博覧会」、通称「大阪万博」です。

ここで日本は国際的なデビューを果たすとともに、日本人は外国のさまざまな文化を肌で触れることになりました。シェフたちの中には大阪万博で外国に憧れを持ったという人たちもいます。この2つのイベントをターニングポイントに、日本人は外国の「本場」を意識するようになったようです。

そんな時代に呼応し、多くの料理人たちにイタリアの食文化を伝えた先駆けと言えば西村暢夫さんでしょう。東京外国語大学のイタリア語学科出身の西村さんはイタリア語会話の学校を開き、73年には高田馬場に「リストランテ文流」をオープンしました。ここでイタリアからシェフを招いて講演をしたり、イタリアへ料理修業希望の留学生を送り込んだりしたのです。

西村さんが語っていた「料理は技術だけを学ぶのではなく、その国の文化も学ぶこと」とは、外国の料理を提供する多くの日本人シェフが理想として語ることですが、特にイタリア料理のシェフからよく聞いたように思います。そして彼らがイタリア食文化を理解しているシェフとして尊敬しているのが、経堂「ホスタリア・エル・カンピドイオ」の吉川敏明さんです。

吉川さんは20歳になった66年にイタリアへ渡り、ローマの国立ホテル学校に入学。全員イタリア人の中でイタリア料理を勉強し、そのままイタリアで働いてきた経験を持ちます。今でこそイタリア修業は当たり前ですが、その当時はかなり珍しいことでした。

帰国してしばらくした77年、西麻布につくった「カピトリーノ」は本物に飢えた客たちでいっぱいになり、多くのシェフの卵たちも集って日本風のアレンジを加えないイタリア料理を、「食べる」だけではなく、「学んで」いました。

イタリア料理といえばようやくスパゲッティが挙がるようになった、まだイタリア料理の芽生え時代に、アンティパスト(前菜)、プリモ(パスタ)、セコンド(メイン)という食べ方を提唱し、イタリア各地には郷土料理があると言うことを力説し、彼が過ごしたローマの伝統料理「仔羊のカッチャトーラ」や「トリッパのトマト煮込み」を黙って出していたのですから、かなりの攻めです。

でもその攻めがあったからこそ「イタリア料理の基準」を守ることになり、後進たちが、のびのびと個性を表現できる時代に移っていったような気がします。(土田)

吉川俊明シェフ

歴史や郷土に根ざした深い食文化も伝授
「ホスタリア・エル・カンピドイオ」

イタリア料理がまだ洋食の1つという認識しか持たれなかった時代から、味だけではなく本場のイタリアの文化を伝えてきた。箸を求められれば「ない」と言い、パスタだけを食べる客を断り、ボンゴレのスパゲッティにチーズをかけることすら拒んだ。頑固な姿勢は時に煙たがられてもいたが、そのぶれない姿勢は後進たちの大きな道標となった。イタリアが20の州で構成され、それぞれに郷土料理があることを世に知らしめた功労者のひとりである。『イタリア料理教本上・下巻』(柴田書店)は料理人のバイブル。

日本万国博覧会

1970年3~9月、大阪・千里丘陵で開催。77の国と地域が参加し、6400万人以上が入場。宇宙船アポロが持ち帰った「月の石」がアメリカ館で展示され、人気を呼んだ。イタリア館はトンマーゾ・ヴァッレが建築。各国が自慢料理を披露する食の祭典とも言われ、ここでピザやエスプレッソも登場した。イタリア館で料理を担当した本多征昭は後に「カプリチョーザ」の創業者となった。

|コラム|イタリア料理修業への道

1960年代に料理修業でイタリアに渡ったよ吉川敏明氏は、当時の月給の数倍したという片道切符を手に日本を後にしたという。イタリアへ渡るのがやっとという時代、再び日本の土を踏むことができるかどうかは天に任せ……そんな覚悟をもっての渡航だったようだ。吉川氏はそれでもローマの国立(当時)ホテル学校で学び、その後はローマの有名ホテルやレストランで実績を積んだが、そうした修業の王道を進むことができた人は一握り。当時のイタリアでは、日本人の存在自体が珍しく、料理人として正式に雇い入れるケースは稀であった。短期間の研修で調理場に立つことができるのは良い方で、調理場の見学や食べ歩きで見聞を広めていた人も多かったようだ。そうした先達の苦労が実るのが70~80年代。日本人の技術力の高さ、勤勉さ、誠実さなどが徐々に評価され、日本人の受け入れを進めるレストランが増えていく。修業先のシェフやオーナーが、次の店を紹介してくれたり、部門シェフなど要職に就かせたりすることも珍しくなくなった。一カ所にじっくりと腰を据えて学ぶ人、北から南へ、南から北へと移動をしながらさまざまな地方文化に触れる人など、修業の形態も多様化していく。「イタリア会」が発足したのも、ちょうどこの頃(初代会長は日髙良実氏)。イタリア各地で修業する料理人が親睦と情報交換を目的に創設したネットワークで、ここでの情報から研修の次のステップを進めることも多かったようだ。イタリア修業の次の転換点は、日本人を対象にした料理学校のスタート。先鞭をつけたのは「文流」が80年代にトスカーナ州シエナに開設した「シエナ料理学院」(現在は「ルッカ・イタリア料理学院」)だが、その後、88年に発足した「日本イタリア料理協会」が、90年代にピエモンテ州に創設された「外国人のための州政府認定イタリア料理学校(ICIF)」の長期カリキュラムに日本人を送りこむ制度を作り、料理留学の道が安定的に開かれることになる。

 河合寛子/土田美登世

フードエディター&ライター 河合寛子/土田美登世

【著者】プロフィール

■河合寛子/「専門料理」「料理王国」編集部を経てフリーランスのフードエディター&ライター。「専門料理」編集長時代には1980年代から90年代にかけての大イタリア料理ブームをプロの視点から取材してきた。確かな知識で書かれる原稿にシェフたちの信頼も厚い。イタリア料理の編書多数。

■土田美登世/「専門料理」「料理王国」編集部を経てフリーランスのフードエディター&ライター。「専門料理」では河合氏の部下。ともに「料理王国」創刊メンバー。『日本イタリア料理事始め堀川春子の90年』(小学校・刊)をまとめ、日本のイタリア料理の歴史を追った。

Text:河合寛子(1980年代、1990年代)/土田美登世(明治〜1970年代、2000年代)

※こちらの記事は2015年11月20日発行『メトロミニッツ』No.157に掲載された情報です。

更新: 2016年11月11日

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