|地中海料理という、暮らし方。[8]|

どんな国があり、どんな人々が生きたのか。
9〜10世紀のヨーロッパ成立期

いつの時代も海上交易が盛んで、人種と文化が交流する場として、様々な栄枯盛衰を見つめてきた地中海。今日の地中海料理に至るまでの背景を探ろうと、周辺の国々の動き、庶民の暮らしなど、時代をさかのぼってみました。とはいえ、背景を探るほどまでには全く至ってはいませんが…。どうぞご参考に。

9〜10世紀のヨーロッパ成立期

9世紀、フランク王国のカール大帝(シャルルマーニュ)が西ヨーロッパの主要地域を武力で統一。ビザンツ帝国に対抗する強国を作り上げ、カール大帝はローマ教皇から「ローマ帝国皇帝」の冠を授けられます。その意味は、古代ローマ帝国の復興ということだけではなく、正統派キリスト教の拡大という任務を教会から与えられたゲルマン人を皇帝とする国家だったこと、もあるそうです。

カール大帝の戴冠は、「ヨーロッパ世界の成立」を表しているとされています。それは、古代(西ローマ)、キリスト教、ゲルマンの3つの要素が融合し、西ヨーロッパが独自の文明世界に1つにまとまったことを象徴しているそうで、カール大帝は”ヨーロッパの父”と呼ばれることも。

しかし、やがて偉大な存在だったカール大帝が亡くなると、再び内紛が勃発。王国は、東フランク、西フランク、イタリアに分裂します。さらに、この頃、イスラム勢力だけでなく、バイキング(ノルマン人)やマジャール人などの侵入が相次ぎ、西ヨーロッパは再び混乱に陥っていきました(第二次民族大移動)。

そして、”ヨーロッパが成立した”のと時を同じくして、地中海の様子はと言えば、長い間ビザンツ帝国の支配下にあった地中海の大部分をイスラムが支配をし始めた時期。サルデーニャ島、シチリア島をはじめとする島々にもイスラムに征服されてしまったのです。このように民族大移動、イスラム勢力の地中海占拠などの混乱の間に商業や交通は衰え、自給自足の農業経済が優勢になっていきます。

人々は遠い存在の国王ではなく、近くの有力者に頼るようになり、武装した騎士を従え、城を構えて近くの住民を支配する諸侯たち(貴族)が各地に現れるようになりました。また、教会・修道院の高位聖職者も諸侯に等しい地位に。こうして形成されたのが「封建社会」です。中でも荘園は、土地の所有者である聖職者、貴族、騎士が領主として農民を支配する単位。

ほとんどの農民は領主に賦役や貢納の義務があり、様々な束縛を受ける隷属的な身分でした。しかし、安全を確保してくれる城の周りに住民が集まり住むことは、社会が不安定だったこの時期には自然な現象だったのです。

さらに、地中海沿岸地域は独特の進化をし、小高い山や丘の上に建てた城の周囲に集落を作り、外部に防壁を巡らせる「インカステラメント」と呼ばれる現象が起こります。そこでは、かつてのように個人が自由に作物栽培を行うことはなく、全ての農作業を農民全員が共同作業で行いました。人と人のつながりが深い、現在の地中海地域の雰囲気に少し近づいた頃とも言えるのかもしれません。

数々の"争い"と"文化交流"がありました

イスラム化する地中海

写真は、シチリアのサン・ジョヴァンニ・デリ・エレミティ教会。11世紀のイスラム時代の城を、12世紀にノルマン人の王宮としたアラブ・ノルマン様式。cPPS通信社

7~8世紀のイスラム勢力の地中海進出は、ニオラ先生も「イスラム化する前と後」とのお話をされていましたが、後の時代に大きな影響を与えたとされます。政治的な影響に限らず、イスラムの人々の高い技術も伝わっています。例えば、灌漑システム。乾燥した地中海性気候の土地には嬉しい技術です。他にも、陶器の施釉、養蚕、柑橘類栽培なども。

ところで、「後ウマイヤ朝」に統治されていたイベリア半島のその後は、8世紀のイスラム支配の時から、北部の山岳地帯に逃げ込んでいたキリスト教徒の「アストリアス王国」の勢力が拡大し、11世紀、国を取り戻す戦い「レコンキスタ」(国土回復運動)が起こります。

そして、12世紀後半には半島の北半分を取り戻し、1492年にイスラム教国家が滅亡。また、イタリアのシチリア島の場合は、3つの文化圏の境界地域となり、アラブ・イスラム文化、ギリシャ・東方正教文化、ラテン・カトリック文化が併存する状況に。12世紀には、ノルマン人によるノルマン・シチリア王国が誕生、という複雑な歴史を辿っています。

写真はカール大帝像 cGranger cPPS通信社

Text:メトロミニッツ編集部


※こちらの記事は2015年5月20日発行『メトロミニッツ』No.151に掲載された情報です。

更新: 2016年11月30日

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